YELL~社会の第一線で活躍するそろばんOBからの応援メッセージ~ 

YELL  VOL.7
~社会の第一線で活躍するそろばんOBからの応援メッセージ~
from 時枝 正和(文部科学省初等中等教育局初等中等教育企画課企画係長)

略歴
※連盟広報誌「全珠連会報」第169号(2016.3)に掲載


そろばんが教えてくれたこと


 1994年、イチローがプロ野球史上初めて200本安打を打ち、世の中がイチローブームに沸いていた年。私は福岡の片田舎で小学校に上がり、イチローに憧れて白球を追う野球少年でした。その年のオフは、多くのテレビ番組でイチローが引っ張りだこでしたが、ある日、クイズ番組にイチローが出演していました。
 見ていると、こんな問題が出ました。「48+35+76は?」瞬時にイチローが答えました。「159じゃないですか?」驚く周囲に対してイチローはこう続けました。

 「僕、そろばんやってたんですよ」

 聞けば、イチローは珠算3級を持っているとのこと。そのため、この程度の計算なら瞬時に暗算できたということでした。イチローに憧れ、振り子打法を真似して毎日バットを振っていた私が、その日からそろばんにさらに真剣に打ち込むようになったのは言うまでもありません。
 
 「努力せずに何かできるようになる人のことを『天才』というのなら、僕はそうじゃない。努力した結果、何かができるようになる人のことを『天才』というのなら、僕はそうだと思う。人が僕のことを、努力もせずに打てるんだと思うなら、それは間違いです」
 この言葉は、イチローの数ある名言のうちの一つです。野球に限らず全てのことに通じるものですが、特にそろばんには当てはまる言葉のように思います。
 そろばんは、努力せずにできるようになる人はいません。逆に、コツコツと努力を積み重ねていけば、誰でも必ず、そろばんの「天才」になれます。
 そろばんを習ったことのある方なら誰でも、そろばんは集中力、忍耐力、思考力など、単なる計算力にとどまらないたくさんのものを学ばせてくれることを知っているでしょう。その中でも私は何より、「粘り強く努力を続けることが、成功へのたった一つの道である」ということを教えてくれるものだと思っています。

 さて、僭越ながら私の話をさせていただきます。私は、福岡県宗像市の若竹珠算学園で、石川千津惠先生からそろばんを教えていただきました。今思い返すと、石川先生のご指導は、「そろばん教室」と聞いて思い浮かべるものとは必ずしも同じではなく、とても特徴的であり、先進的でした。
 私が若竹珠算学園に入塾したのは小学校1年生の時です。石川先生は、小学校低学年の生徒に対しては、そろばんの練習だけでなく、綺麗な字を書く練習や基本的な読み書きについても一人ひとりに丁寧に指導し、これに多くの時間を割いておられました。また、良い姿勢で学習することを非常に大事にされており、「ピシャッとせんね」(「背筋を伸ばして行儀よくしなさい」といったような意味)と、私も友人たちもよく言われていたことを覚えています。ここ10年ほど教育現場で注目を浴びている百マス計算も、石川先生は20年以上前の時点で既に指導に取り入れておられ、生徒たちの達成時間をランキングにして教室に掲示するなど、私たちが練習に取り組む意欲を上手く引き出してくださいました。このような指導の中で、石川先生は一貫して、単なる計算力を身につけるだけでなく、深い愛情を持って、人として基本的な「生きる力」を育てることにご尽力されていたように思います。

 小学校時代は地元のチームで野球をやっていた私は、中学校に入ると野球部に入りました。私の入部した野球部は福岡県大会の常連の強豪野球部であり、平日は毎日20時近くまで練習し、土日は毎週試合に出かけるという野球漬けの毎日になりました。また、小学校の頃から地元の劇団に所属し、中学入学後も演劇も続けていたため、自由になる時間が殆どなくなりました。その頃ようやく「級」を卒業し「段」の世界に辿り着いていた私は、そろばんを続けたいという希望はありましたが、かといって野球部の練習を休むこともできず、これまでのように教室に通うことができなくなりました。「もう辞めるしかないか」そう思い、石川先生に相談してみました。すると、思いもよらなかったことに、「じゃあ野球部の練習が終わってから来たらいいよ」と、私のために、20時半から22時までという時間に教室を開いていただけることになりました。同じような境遇にあった友人も何人かいたため、それからは数人の友人とともに、夜20時半から教室に通う日々が始まりました。このおかげで、野球や演劇を続けながら、最終的に四段まで取得することができました。
 私はこのYELLを書いている諸先輩方と違い、そろばんで日本一を目指すような大会に出たわけでもなく、野球や演劇と趣味のような形で掛け持ちしながら、なんとか四段まで辿り着いた程度の実力です。そんな私の「まだもう少し続けて頑張りたい」という思いに、二つ返事で答えて夜中まで熱心に指導してくださった石川先生には、いくら感謝してもしきれない思いです。

 私は今、文部科学省に勤めています。日本の初等中等教育(幼稚園から高校までの学校教育)全体の企画立案という職務の中で、「未来を生きる子供たちにとって大切な力とは何だろう」と考える日々です。
 そんな中、オックスフォード大学のマイケル・A・オズボーン准教授が、「今後10年から20年で、約半数の仕事が自動化される可能性が高い」という趣旨の論文を発表しました。一時期メディアでも話題になりましたが、科学技術の進歩により現在ある多数の職業が取って代わられ、今の子供たちの多くは現在存在しない職業に就くという、衝撃的な内容でした。そんな未来の子供たちに必要な力は一体何か。これを考え、政策として実現していくというのは、非常に難しい問題です。
 以前、研究振興を行う部署にいた際には、1秒間に1京回の計算ができるスーパーコンピュータ「京」の運用や、その100倍の計算性能を目指す新たなスーパーコンピュータの開発に、予算面の支援などで関わっていたことがあります。
 そろばんの長い歴史の中で、ほんの数十年前まではそろばんができることは実務上非常に重宝されていました。しかし現在では、電卓や表計算ソフトが普及し、人間の限界を遙かに超えた計算が可能な時代を迎えています。計算能力という面では、既に人間はコンピュータに取って代わられており、「そろばんができること」そのものが社会で広く重宝される時代はもう二度と来ないでしょう。
 にもかかわらず、最近、そろばんが習い事として再び脚光を浴びています。「そろばんは右脳と左脳を同時に鍛える」「記憶力や論理的思考能力を育てる」「集中力を高める」など、さまざまな効用が挙げられていますが、私も同様にそろばんを通して大切なことを教えていただきました。
 「粘り強く努力を続けることが、成功へのたった一つの道である」

 あらゆるものがコンピュータに取って代わられていく中で、コンピュータで置き換えることのできない人間としての「生きる力」とは何か。それを教えてくれたそろばんと石川先生に、心から感謝したいと思います。

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