YELL ~社会の第一線で活躍するそろばんOBからの応援メッセージ~ 

YELL  VOL.4
~社会の第一線で活躍するそろばんOBからの応援メッセージ~
from 梅村 敏明 
   (天台寺門宗総本山園城寺(三井寺)執事・妙厳院住職)

略歴
※連盟広報紙「全珠連会報」第166号(2015.3)に掲載

 最初に告白しておきます。私にはそろばん教室に通った経験はありません。そろばんだけではなく、他の一切の習い事もありません。私は兄弟3人の末っ子として生まれ、父親は地方公務員でしたので、経済的にも余裕がなかったのでしょう。とにかくやんちゃで、2つ上の兄がべそをかいて帰ってくると、仕返しとばかりに家を飛び出して行くような小学校時代でした。
 学校の授業の一環としてそろばんがありましたが、授業中に1から9までを算盤に置いて、同じことを9回繰り返すと「1111111101」になる遊びを先生に見つからないようにやっていたことを思い出します。
 中学では野球部に籍を置きました。非常に厳しい監督さんでした。現在では考えられないことですが、手は飛んでくる、バットは飛んでくる、真夏の練習でも水は一滴も飲めない、監督が気に入らなければ「よし!」の号令がかかるまでグランドを何周も走らされる毎日でした。しかし、そんな辛い練習をみんなで乗り越えてきたからこそ、チームには結束もあったし、友情も生まれたように思います。50年近く経った今でもそのときのメンバーとは年に数回会って楽しい時間を過ごしています。
 その厳しい監督のあだ名を「モグラ」というのですが、その来歴はどの先輩に聞いても知らないらしく、酒席の場ではいつも話題に上るのですが、最後には「やっぱりモグラに教えてもらってよかった」に話は落ち着き、お開きになるのです。私が大学生のときに監督は海外で不慮の事故に遭われ、亡くなられたそうです。海外にも野球指導で行かれていたということを後で聞かされました。とにかく学生野球界では有名な存在でした。尊敬する大先輩でもありました。
 高校でも硬式野球をやりましたが、先輩と折りが合わず中途退部しました。2年生の夏休みに奈良の法隆寺に友達と行ったとき、夢違い観音像を見て感動し、売店で売っていた観音像の頭部のレプリカを買って、それを版画にして翌年の年賀状に刷り込んだことがありました。それ以来、仏教に興味を抱くようになり、本を読んだり、休みにはお寺に行ったりと、以前とはずいぶん違う時間を過ごしたように思います。
 大学では仏教史学(仏教彫刻)を専攻しました。将来は博物館へとの希望もあって、学芸員の資格も取得しましたが、夢は叶いませんでした。卒業後は市役所の嘱託として文化財の仕事をしました。その最初の仕事が、文化庁による「重要社寺集中調査」の補助員として三井寺の文化財調査でした。
 昭和50年の夏でした。文化庁美術工芸課の彫刻、絵画、工芸、書籍典籍担当の専門技官による三井寺の文化財悉皆調査です。私は書籍典籍担当技官の調査補助員となりました。文字は草書体や崩し字なので、何と書かれているのか私にはさっぱり解読できない文書をいとも簡単に読み下すのを目の当たりにし、すごい人がいるものだと唯々感心するばかりでした。
 当時は開発事業が盛んで、開発に伴う発掘調査が全国的に行われていました。大津市でも宅地造成に伴い、大津宮関連遺跡調査に携わったり、古墳の発掘調査を行ったりと、考古学は素人の私も人手不足というので駆り出される日々でした。
 文化財に関われている毎日を楽しんでおりましたが、所詮嘱託の身。文化財専門職員には定員があり、今後正職員になれる見通しもつかないのを見かねた課長から、京都に仏教美術を専門に出版している会社があるが、梅村君どうかと話がありました。文化財関係の仕事を離れることには寂しさがありましたが、結婚間もない私は、人生の先輩である課長の勧めに従って出版社にお世話になることを決断しました。嘱託として4年、文化財の仕事をしました。
 京都の仏教美術専門出版社でのサラリーマン生活が始まりました。編集者数人の小さな会社でした。その会社の社長は、三井寺住職が高校の教師をしていた時の教え子だったのです。そんな縁で会社は三井寺が発行している「季刊誌三井寺」の編集を請け負っていました。会社が京都市にあって、私の自宅が大津市にあるものですから、季刊誌の原稿受け取りや、校正紙の届けなどでよく三井寺に立ち寄ることがありました。住職にも可愛がられて、夕食まで戴いたことも何度かありました。
 しかし、入社後3年を過ぎたとき会社が倒産しました。住職に今までのお礼と経緯をお話しするためご挨拶に伺うと、「これからどうするのや。うちに来て季刊誌の編集と寺の文化財のことをやらんか」と言っていただき、三井寺に奉職することになりました。
 考えてみると、市役所の嘱託員として初めての仕事が三井寺文化財調査であり、会社員としても「季刊誌三井寺」を通して関わりがあって、三井寺との縁を感じずにはおられません。
 三井寺に奉職して7年、住職から突然「お前も大峰(修験行場)に行って来い。得度してやるから、お坊さんとして修行して来い」と言われました。三井寺では毎年5月、大峰奥駈修行があり、山伏姿で山に分け入ってただひたすら歩き、自然と一体となることにより、霊験を戴くとともに、自然を崇敬し、自己研鑽をするのです。
 「こいつなら坊さんとしてやっていけるだろう」と7年間見ておられたのでしょう。以来27年、三井寺の文化財に深く関わってきました。国宝や重要文化財の修理、大きな展覧会も経験しました。学生時代には仏像は研究対象でした。しかし、お寺に来てからは仏像は礼拝・信仰の対象であるということを改めて肌身に感じました。それは街角の小さな祠や山間のお堂にひっそりと祀られている仏像であろうが、国宝や重要文化財に指定されている仏像であろうが信仰にはまったく差がないことを、僧侶となって知らされたことでもありました。
 私がおります三井寺観音堂は西国第14番札所です。連日札所巡りの善男善女のお詣りが絶えません。その観音堂境内から大津の街並みや琵琶湖が一望できる高台に「大津そろばん顕彰碑」があります。昭和50年12月、全国珠算教育連盟によって建立されたものです。25日には関係者出席のもと除幕式が執り行われました。
 三井寺近在の東海道筋に住む片岡庄兵衛は慶長17年(1612年)、中国式そろばんを参考に研究を重ねた末、日本式そろばんの基礎を打ち立てました。以来 300年の間、大津そろばんは全国に広まり、隆盛を極めました。
 毎年4月29日、日頃お世話になっているそろばんに感謝するとともに、さらなる技術の向上を願って「そろばん祭り」が全国珠算教育連盟滋賀県支部主催により顕彰碑の前で行われます。そろばん教室に通う子供たちによる競技会も同時に開催されます。
 また、観音堂に文政11年(1828年)に奉納された関流の算額があることから、昨年同志社中学より算額が奉納されました。近年、中学校において数学教育が重視されているようです。自分が作った数学問題が 200年、 300年先まで堂内に掲げられるなんて、なんと夢のあることでしょうか。
 皆さんも難問・奇問を後世の人たちに出題してみてはどうでしょう。

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