YELL~社会の第一線で活躍するそろばんOBからの応援メッセージ~  


YELL  VOL.12
~社会の第一線で活躍するそろばんOBからの応援メッセージ~
from 原田 孔平(作家)

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<略歴>
昭和24年生まれ
私立桐朋高校卒
その後、珠算活動を経て、作家へ
著書「浮かれ鳶の事件帖」他。
時代小説を手がけ、著書の随所にかつての珠算指導者としての知見を盛り込み、当時の寺子屋での珠算指導などの記述がある。


 私が珠算界を離れてから随分の時が経った。なのに、私の夢の中には、未だに珠算を教えていた頃の自分が出てくる。子供たちとじゃれ合っているシーンもあれば、遊園地に生徒を置き忘れ、慌てて戻ったことなど、夢は忘れかけていた記憶さえ思い出させてくれる。目覚めた後で「そんなこともあったなあ」と懐かしさを覚えたりもするが、中にはかなりのほろ苦さを味あわせてくれるものもある。それは一人しかいなかった生徒を3ヵ月間教えていた頃の記憶だ。入学随時とは謳っているものの、現実問題として生徒は月初めにしか入ってこない。つまり月初めが過ぎてしまえば、その月の生徒数は現状のままであり、下手をすれば減少することも起り得る。一がゼロになっては塾の存在価値はない。私の珠算生活は、まさに切れかかったロープにしがみつく格好でスタートを切った。

 ところが、どうやら貧乏神には、幸運の女神という不釣り合いな彼女がいるらしく、貧乏神が目を離した隙に、小粋な女神が私に微笑みかけてくれた。たった一人の塾生であった8歳の女の子は我慢強く、隙間風が吹き抜ける貧乏神好みの塾を健気にも支えてくれた。4ヵ月目になり、生徒数が3倍になったときの感動は、いまだに忘れることができないものとなった。不思議なことに、このときの感動を再現する夢はいまだに出てきてはくれないが、それはおそらく、私に憑りついていた貧乏神が、私を見限る前に嫌がらせの呪いをかけていったためと思われる。

 かくして私は、珠算人の仲間入りをしたわけだが、実際に足を踏み入れてみると、珠算界というのは思いのほか悪くなかった。たとえ入会したばかりの新米教師でも、先輩方は一応、一国一城の主と見て、敬意をもって接してくれたからだ。無論、多少の序列はあったが、世間一般でいわれるやかましやの上司といったものはほとんど存在しなかった。そのうえ、所得も人並み以上にあったことから、当時の私には「珠算教師という職業は、なんとも気儘(きまま)で旨味のあるものよ」と一人悦に入る感さえあった。

 それが錯覚であると感じ始めたのは、昭和60年代に入ってすぐの頃だ。日本中がバブル景気に沸く中、珠算界がその恩恵に浴していないことに気づいたからだ。その後、貿易赤字に苦しむ米国が強引なドル高対策に乗り出したことから、我が国のバブルは弾け、未曽有の不景気が日本中を席巻した。これにより珠算人口は急激に減り、誰もが少子化を理由にあげた。だが私は、そうは見ていなかった。確かに少子化の影響もあるが、減少の要因としては、バブルの好景気に酔った日本人の目が海外に向けられ、一時的に珠算のような日本古来の習い事を軽視したことの方が大きいと捉えた。珠算にとってなによりの不運は、バブルが崩壊した後の緊縮財政が、さらなる追い打ちをかけたゆえだと。

 それでも私は、珠算が必ずかつての栄光を取り戻すと信じていた。その根拠を問われれば、こと人間の能力を最大限に引き出すという点において、珠算ほど優れた習い事は他に例を見ないからであると、私は当時も今も、きっとそう答えるだろう。昨今、都内の塾では生徒数が緩やかながら増加傾向にあると聞く。また、一部の幼稚園では、珠算を取り入れているとも聞いた。これは非常に明るい話題であり、かつ画期的な出来事であると思う。

 なぜなら日本古来の習い事というのは、珠算に限らず、書道、柔剣道に至るまで、入門時期や入塾年齢に拘らないという特性を持っているからだ。おそらくは寺子屋時代の名残なのだろうが、入学時期が定まっていないということは、卒業式も無いということになる。つまりは習得期間が提示されていないのと同じだ。これは現在の保護者たちの目にはどう映るだろう。少子化の影響で、親たちは子供の教育により神経を使うようになった。塾に通わせるにもできるだけ多くの情報を集めたがるというのに、肝心の習得期間が提示されていなければ、保護者たちに敬遠される要因ともなりかねない。一昔前ならば、2級、3級の資格を取るまでという一定の基準が保護者側にもあったが、今はさほど、その資格に社会的な価値はない。がっかりさせたようで申し訳ないが、やはり保護者が求めるのは、一定基準の計算力を身につけることと、それに要する習得期間の提示だろう。

 最後に、私が一番懸念している問題についても触れておきたい。それは珠算に限らず、あらゆる分野において、その道の最高技能取得者は尊敬され、優遇されなくてはならないということだ。最高技能取得者とは、言わずと知れた十段位既得者たちだ。同時に、彼らはもれなく幼児教育体験者でもある。そんな彼らに、これまで彼らがしてきた努力に相応しい報酬を用意し、それなりの地位を与えることができれば、珠算界はもう一つ上のステップへと進めるのではないだろうか。幼児教育は難しい。私が珠算界にいた頃にも幾度か取り沙汰され、その都度講習会も行われた。だが、すでに指導的立場にいる教師に、それを学ばせることは無理があった。今にして思うことだが、その頃、十段位既得者に珠算認定技能教師の資格を与え、言葉は悪いが、彼らを貸与する方法があったとしたら、珠算界は今とは別の様相を呈していたかもしれない。将来、どこかの塾が習得期間を区切って幼児教育に乗り出したとき、認定教師として週一回でも彼らが派遣されるならば、カリキュラムを組むのも容易くなるはずだ。珠算は必ずかつての栄光を取り戻すと信じているが、それには珠算が時代に受け入れやすくする努力も必要だ。珠算界を去った私が言うのも口幅ったいが、今も珠算を支え続ける骨太の珠算人がいる限り、栄光の日々はそう遠くはないだろう。

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YELL  VOL.11
~社会の第一線で活躍するそろばんOBからの応援メッセージ~
101歳、まだまだ現役 ~全珠連最高齢会員/現役そろばん指導者~
from 日向 竜子(全珠連和歌山県支部会員)

 今回は、全珠連最高齢会員の日向竜子氏に、そろばん指導者としての半生を振り返っていただきました。

⑧

<略歴>
・大正5年
 和歌山県田辺市生まれ

 小学校教員を経て、昭和35年全珠連入会、昭和55年珠算教育士取得、現在に至る。

 大正5年生まれですからね、この6月で101歳になりました。

 会員になる前は学校に勤めていました。小学校の先生です。勤めて6~7年、普通の小学校教員でいたのですが、ちょうどそろばんが盛んになりかけの時期に、誰からともなく「お昼休みに学校でそろばんの授業を…」ということで始まったんです。始めてみると、時間が短い。お昼休みやから。

 ちょうどその頃、亡くなられた西村先生、山本泰弘先生たちがそろばんの塾を始められるということを聞きました。西村先生とは親戚にもなりますので、相談しますと「始めてみたらどう」と勧められました。学校の先生方も「塾を始めたら必ず子供たちが行くから」って言ってくださいました。あれは何年やったか、会津小学校、上秋津小学校、奥の秋津川小学校の近くでそろばん塾を始めることになりました。また、私の父が師範学校にいたので、各小学校の校長先生の支援もあったんです。おかげで生徒がいっぱい集まりました。100人余り座れる教室でも遅く来た生徒は待たされて、大変でした。
 
 全珠連の入会は、昭和35年です。そろばんを始めて60年近くになります。ちょうど、そろばんが学校の教科になったので、どっと生徒がきてくれました。主人と二人で何箇所も掛け持ちでの授業でした。早朝の教室も2箇所ほどありました。大変忙しかったけど、楽しかった思い出です。

 主人は60歳で亡くなりました。その後は息子と足が悪くなった10年ほど前までがんばってきました。それからは椅子に座っての先生です。教室での検定試験のときは、椅子に座って「ヨーイ始め!」「止め!」の係をやっています。

 子供に教えるのはとても楽しいですよ。そろばんが苦手な生徒を教室の前の方で、繰り返し繰り返し教えるのです。

*ご子息の憲司先生談・田舎の子供相手に、まるで自分の子供に教えるように教えていました。

 そろばんを習う子供が少なくなったのは、子供の数が減ったのと、小学生でもいろんなスポーツが盛んになって、子供たちや保護者の目がそちらに向いてしまったからではないかと思います。

 元々、内臓が元気で、血液検査をしてもどこも悪くありません。健康の秘訣は?と聞かれましても特別なことは何もしていませんが、食べ物の好き嫌いはありません。息子の献立で毎日、野菜と肉と魚はバランスよく食べています。

 趣味はカメラです。70歳位までは休みになると友達と旅行に行って、あちらこちらを撮っていました。

 昨年9月に田辺市長から、100歳の表彰をしてもらいました。記念の夏布団は、せっかくいただいたものなので大事に使わせてもらっています。
 
 10年位前までは、健康のため補助車を押して家の周りを毎日回っていましたが、ベッドから降りるときに尻餅をついて、骨盤を骨折しました。完治はしたのですが、それから怖くて歩かなくなりました。歩かないから筋力が衰え、余計に足が悪くなってしまいました。

 100歳になっても昔のことを忘れるということは無かったのですが、ここ最近は物忘れが酷くなってきました。それと骨粗鬆症というのでしょうか、今も病院へ通っています。

 この間の検定試験では座って監督をしました。これが本当の試験監督です。(笑)

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YELL  VOL.10
~社会の第一線で活躍するそろばんOBからの応援メッセージ~
from 福島 弘之(パナソニック株式会社 珠算部)

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<略歴>
・昭和52年
 大阪府吹田市生まれ
・兵庫県神戸市、高知市、徳島市、兵庫県西宮市の4地域で珠算を修学
・平成12年 
 関西学院大学商学部 卒業
 松下電器産業株式会社(現パナソニック株式会社) 入社
・平成25年
 インドネシアの海外子会社に経理担当取締役として赴任
・パナソニック珠算部主将を兼任
【珠算十段・暗算十段】

 私は、まだ現役で珠算競技生活を続けている社会人です。すなわち、そろばんOBでもなく、未だに周りの多くの方から応援していただいているわけであり、YELLの主旨からは外れているかもしれません。しかしながら、光栄なことに本原稿のご依頼をいただきましたので、今までそろばんを通じて得た貴重な出会い、気付き、今後の目標についてお話させていただこうと思います。

 そろばんを始めたのは6歳の誕生日当日、全くそろばんに無縁の親に連れられて教室に行ったのが最初でした。小学校1年生から許される入塾を、無理言って入れてもらい、ちゃんとやらないとすぐやめさせるぞ、と脅されながら始めた記憶が残っています。ある日、教室での隣の席が小学校高学年か中学生のお兄ちゃんで、そろばんの弾きが速いこと、速いこと・・・。あとで聞くとまだ参段とのことでしたが、入塾当初の私にはそれは衝撃的な光景でした。それ以来、とにかくあのようにやってみたいと、練習でも検定本番でも定められた制限時間など眼中に無し、今日はどれくらい短く、速く、そして激しくそろばんができるか、ある意味「競技気質」が私の中に生まれたきっかけになったように思います。

 その後、親の転勤で転居が数回あり、そのたびにそろばん教室も変わり、新たな先生にご指導いただきながら、そろばんを続けてきました。ありがたいことに常に誰か競争相手がおり、かつ競技好きな先生ばかりでしたので、自分に合った形で継続し、中学入学と同時に再び転居で4つ目のそろばん教室に移りました。初の男性の先生であったこと、中学生ですから、それなりに緊張感を滲ませながら、おとなしく最初の練習に臨んでいたのですが、乗算・除算と終わり、次の見取算が始まった瞬間、計算準備で構えた私のそろばんを取りあげ、「何そろばん使ってるんや!!」と。今となれば、全日本大会でもほとんどの人が見取算は暗算で行うことがスタンダードですが、片田舎から出てきた私は、何を怒られたのか、何が問題なのか、ただ固まるばかりでした。先生の想像をはるかに超える私の深刻な暗算不得手により、その後の昇段(全珠連四段→五段)に5年もかかるというオチもつくのですが、あの瞬間のおかげで、今の暗算力勝負の時代でも現役として続けられる素地となったことは間違いなく、今では酒席の笑い話の一つとして、よき思い出です。

 社会人になっても、そろばんを通じた出会いが私を豊かにしてくれました。パナソニック株式会社に入社し、今では企業で唯一存在している珠算部にも入部、そこで出会った仲間は私より遥かに上手な人ばかりで、練習を一緒にすることで、かなり成績的にも引っ張りあげてもらいました。同時に2001年以降の全日本珠算選手権大会のオープン化(予選はなく自由に出場可能)や、多くの新規競技大会の創設などのありがたい流れにも乗り、全国にも友人やライバルが増え、本当にやりやすい環境でそろばんを続けさせてもらっています。

 自分自身の今までのそろばん人生を振り返り、改めて思うことは、そろばんを通じて出会った方々や、与えていただいた経験等のおかげで、今の自分が成り立っていると強く思います。そして、それが不思議と繋がっていたり、挫折しそうになったときにちょうど仲間が前向きになれる元気を与えてくれたり、本当に幸運であると心よりそう感じています。 一方で、その幸運を100%生かすことができたかというと、今となればもっとあのときにがんばれたのではないか、もっと期待に応えられたのではないか、と後悔することもたくさんあります。運は自分ではコントロールすることができませんが、その巡りあわせに対してどう生かすか、どうアクションを起こすかはすべて自分次第です。
 とにかく全力でそろばんに向かいあっていくことが、何よりの恩返しになるのではないかと感じています。

 話は変わりますが、私は2013年よりインドネシアで働いています。安い労働力を求め、ほとんどのモノづくりを海外移転させてきたメーカーの宿命ではあるのですが、いざ自分自身が海外で働くことになるとは想像できず、不安しかない中で急ぎ赴任したことを昨日のことのように覚えています。
 しかしいざ赴任し、身を助けてくれたのもそろばんでした。インドネシアの人から見ると、私はどこから来たのか得体の知れない謎の外国人、最初は警戒しながらの関係で仕事が始まります。そんな人間が資料を数秒ながめただけで、ここの部分が間違っている、こんな答えの桁にはならない、これくらいの数値になるから見直して、というふうにバシバシ言い当てていくと、インドネシア人からするともう理解不能、マジックのように感じたようです。インドネシアの国民性を表わす言葉に「kira-kira(キラキラ)」というものがあります。これは和訳すると「だいたい、おおよそ」という意味で、よくいうと細部にこだわらず大らかな性格、悪くいうと大事なところでも適当に済ませるというような様子を表現しています。そういう背景もあり、読み方からも比較的日本人が最初に覚えるインドネシア語ですので、「これとそれを掛けて、この数字で割ったら、kira-kira 125.6%になるやろ?」と会話すると、「ボス、それ、kira-kiraじゃないです」と、一体どうなっているんだ、という顔で笑ってくれます。数字や計算は世界共通、そろばんが距離を縮めてくれた一つの出来事です。
 一方、インドネシアは日本の40年ほど前の状況のような気がします。急激な経済発展が始まり、多くの人にとって憧れの物であった車やバイクを手に入れるようになり、世界一激しいといわれる交通渋滞が毎日起きています。さらに、これから学歴社会が始まるといわれており、子供にかける学費に給料の大部分を費やすケースや、仕事をしながら自分自身も大学に通う従業員も多くいます。そろばんにおいても大きな珠算団体が存在し、数回私も教室に突撃訪問させていただきましたが、5桁の見取算を一括で暗算しようとしている子供も見かけるほど、将来は今の日本に負けないくらいのレベルになるのではないかと感じざるを得ません。 

 私自身はさすがにこれから選手としては大きく伸びることはないでしょう。一方、これも本当に偶然が重なりインドネシアに来て、また新たに刺激を受けたもの、得たものは本当に多くあります。今までそろばんを通じて私が得た貴重な出会いや経験を、今後、逆に影響を与える側の存在にどうやってなっていこうか、たまにふと頭の中を巡るときもあります。まだまだ私自身は修行が足りませんし、具体的にどのような形で、というアウトラインも全く見えておりませんが、後悔なく真摯にこれからもそろばんに向かいあっていきたいと思っています。このすばらしいそろばんを通じて繋がる未来に向かって、皆様とご一緒に、これからもそろばんにYELLを送っていきたいと思います。  以 上

※連盟広報誌「全珠連会報」第172号(2017.3)に掲載


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YELL  VOL.9
~社会の第一線で活躍するそろばんOBからの応援メッセージ~
from 隅野 貴裕(毎日パソコン入力コンクール技術顧問)
※連盟広報誌「全珠連会報」第171号(2016.11)に掲載
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昭和57年 東京都小平市生まれ
平成14年 第1回毎日パソコン入力コンクール優勝(以降第6回まで連続優勝 内閣総理大臣賞他、受賞)
平成15年 全日本タイピスト連合設立
現在はシンガポールにてITコンサルタントに従事


  初めにお伝えしますが、実は私はそろばんではなく、キーボードを使った文字入力、つまりタイピングにずっと取り組んできた人間です。毎日新聞社と日本パソコン能力検定委員会の主催する「毎日パソコン入力コンクール」の全国大会において「フラッシュ暗算」という種目があり、そこで毎年珠算の達人の素晴らしい計算能力を拝見しており、そのような場の繋がりからこの機会をいただきました。そろばんもタイピングも、目標を持って日々研鑽に励むこと、検定や大会など努力の成果を発揮して挑戦する場があるという共通点があります。そうして一つの技術に向き合っていくという視点からメッセージをお伝えしたいと思います。

 私がタイピングと出会ったのは、小学校の頃でした。当時はまだパソコンが物珍しい時代でしたが、キーボードを見ないで入力するということに漠然とあこがれを感じていました。幸運にも早い段階でタイピングの練習ソフトに出会い、ホームポジションという正しい手の置き方や指使いを学び、夢中になってキーボードを叩き続けました。そろばんにもありますが、文字入力には速度や正確性という指標があります。練習ソフトではこれが数字としてわかるように表示されたため、日々成長していくことを実感することができました。対戦相手がいたり、チームで取り組んだりするスポーツと違い、自分との戦いになりがちなタイピングの練習において、こうした成績の記録というのは、モチベーションの維持に大きく貢献しました。今より少し上の目標を設定し、それを一つひとつ達成していく。そんな小さな達成感の積み重ねは、努力が形になるということを学ばせてくれました。

 ほどなくして、インターネットの時代が始まりました。今でこそ当たり前ですが、家に居ながらにして、パソコンに向かうだけでいろいろな情報を調べることができたり、誰かとコミュニケーションが取れたり、というのは当時の私には衝撃的でした。そんなある日、インターネット上でタイピングの記録を競い合うウェブサイトを見つけたのです。これが私にとっての転機でした。それまで黙々と一人で取り組んでいたタイピングでしたが、そのウェブサイトによって初めて自分の速さが一体どのくらいのものなのか、ということがわかるようになったのです。そして、人と競い合えるという場は、さらに高い目標設定につながっていきました。

 競い合うようになってから、それまでに加えて一つ大きな要素が加わりました。挫折です。そろばんでも、絶対に間違いない、合っている、と思っていても採点をしてみたら計算に誤りがあった、ということがあると思います。タイピングでも、気持ちのよい程速く打つことができ、これなら!と思っても相手の方が速かったり、正確性で及ばなかったりというのは、一人で練習しているときには無かったことで、初めて抱く感情でした。当時、タイピングというのは覚えるための方法論(ホームポジションなど)は確立されていましたが、それをさらに速く・正確にしていくための方法論はまだまだ不足していて、手探りでした。速さと正確性を求めて、正しいと思って覚えた打ち方や指使いを変えることもありました。たかがタイピングに何をそんなに本気になっているのかと問われることもありましたが、今ならいえます。対象が何であれ、本気で取り組み、小さな達成感と挫折を繰り返しながら習得した技術、そしてその経験というのは何物にも代えがたいものです。努力する楽しさ、その過程にある挫折、その結果としての成長。こういったものが、その後の私の人生にも大きな影響を与えています。

 冒頭で述べた「毎日パソコン入力コンクール」に出会ったのもこの頃です。第1回の大会が行われることを新聞で知り、これまで取り組んできた自分の力を試してみようと申し込みをしました。この大会ができる前は、タイピングゲームの発売記念イベントや、学校の文化祭で行われる小さな大会があったくらいで、さほど規模の大きなものは無かったと思います。自分でもまさかの結果でしたが、コンクールでは優勝することができ、今度はこれを防衛していくためにも、単なるキーの入力速度だけではなく、日本語の漢字変換を含む文章をいかに速く、効率的に入力していくか、という研究に繋がっていきました。その頃には社会人になっていましたが、本業である仕事とは別にライフワークとして真剣に打ち込めることがあるというのは本当に幸せなことだと思いました。2003年には全日本タイピスト連合という団体を設立し、タイピングという技術を広めていく活動もはじめました。

 それからだいぶ経ちますが、今でもタイピングは私のライフワークの一つです。仕事を通じて物事をロジカルに整理する、という経験をすれば、これを活かしてタイピングの教育方法を考えたり、海外で仕事をするようになったら、それを活かして海外のタイピング団体にコンタクトを取り、タイピングの世界大会に参加してみたり。思いもよらなかった形でタイピングとの関係は続いています。

 そろばんもタイピングも、計算や文字入力といった目的があり、そのための手段であることは間違いありません。タイピングにより、メールや資料を素早く仕上げることができるでしょう。そろばんの場合には、計算、そして暗算という形でも活きてきますよね。でも、私はそれだけではないと思っています。今、打ち込んでいるその努力、それによって身に付けた技術とその過程は、単なるスキルに留まらず、自信などのマインド面にも大きなよい影響をもたらしてくれると思います。もしかしたら、人生で切っても切り離せない、やりがいの一つになるかもしれません。達成も挫折もあると思います。でも、努力は裏切りません。ぜひ、がんばって邁進されてください。私も、タイピングアジアカップの開催を夢見ながら、まだまだ邁進します。
以 上



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YELL~社会の第一線で活躍するそろばんOBからの応援メッセージ~  

YELL  VOL.8
~社会の第一線で活躍するそろばんOBからの応援メッセージ~
from 伊藤 祥三(東京大学医学部整形外科学教室)
※連盟広報誌「全珠連会報」第170号(2016.7)に掲載
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滋賀県彦根市生まれ
私立洛南高等学校・東京大学医学部医学科卒
大学卒業後、東京大学医学部整形外科学教室に入局
関連病院での研修を経て、2008年東京大学大学院医学系研究科に進学
軟骨細胞代謝に関する研究で学位取得
2012年4月より東京逓信病院にて勤務

小・中・大と野球一筋、現在でも東大整形外科野球部でプレー中
同部は2007年・2015年に整形外科野球の全国大会で優勝


珠算が叶えてくれた夢

 18歳で故郷を離れて東京の街に降り立ち、早いものでもう20年以上が経ちました。整形外科医として勤務し、自宅に戻れば2児の父として過ごす毎日です。この度、光栄にも原稿のご依頼をいただきましたので、「珠算」を軸として半生を振り返りつつ、ささやかながらメッセージを送りたいと思います。

 私が生まれ育ったのは滋賀県彦根市です。小学校へ入学直後から彦根北野速算塾に通い始め、上原一孝先生・京子先生にご指導を賜りました。前の席にどっしり座り、ときに厳しく生徒を叱って教室の空気を引き締めておられた一孝先生。それをいつも優しくサポートなさっていた京子先生。1年生の生徒はほとんどおらず、指導にあたってはご苦労もおありだったと想像しますが、お二人に優しく教えていただき、楽しみながら力を伸ばすことができました。ほどなく大会にも出場し始めましたが、当然ながら最初はまるで歯が立たず、悔しい思いばかりでした。それゆえ2年生時に初めて読上暗算で入賞したときの喜びは、今でもはっきり覚えているほどです。1問でも間違えたら終わり、というプレッシャーが心地よく感じられ、大会に出るのが毎回楽しみでした。
 
 このように珠算に打ち込む一方、幼少期から野球が大好きで、3年生の秋にはスポーツ少年団に入りました。副主将で4番捕手という役割を担っていたため、予定が重なったときには珠算よりも野球を優先せざるを得ませんでした。珠算に関しては苦しい日々を送ることになりましたが、上原先生に支えていただき、小学校を卒業するまで続けることができました。野球の合間を縫って参加した大会で、何度か優勝を経験できたことはよき思い出です。

 珠算競技の中で、私が最も得意としていたのは暗算です。暗算全盛の現代にあっては信じ難い話かもしれませんが、当時は珠算を習っていても暗算だけは苦手、という人が多くいました。その中で、幼い頃からクイズやパズルなど、とにかく頭を使う遊びが好きだった私にとっては、頭の中だけで計算できることが面白くて仕方ありませんでした。余談ですが、暗算のブレイクスルーとなったのは珠算経験者である母親の「頭の中でそろばんを弾くといいよ」という何気ない一言でした。今では当たり前の指導法ですが、そのときはまさに目からウロコでした。ただ、アドバイスをくれた母親自身は、暗算がそれほど得意ではありません(笑)。

 中学・高校では競技としての珠算に接する機会はありませんでした。病気がちであった祖母と同居していたことから医師を志すようになり、幸運にも恵まれて東京大学に合格。その後、整形外科医となり,現在に至っています。

 冒頭でも書きましたが、私には2人の子供がおります。かねてから子供にも珠算を習わせたい、という想いがあり、妻もそれを理解してくれたため、Sanraku Soroban Schoolの門を叩き、菊地正芳先生にご指導をいただくこととなりました。最初に教室へ足を踏み入れたときの驚きは忘れ得ません。ずらっと並ぶPCモニター、当たり前のように計算を重ねる子供たち…。珠算教育の劇的な変化を目の当たりにした瞬間でした。

 そして、久しぶりに珠算と接したことで、少し不思議な感情が芽生えてきました。かつての珠算人生がいささか不完全燃焼に終わっていたのではないか、と思い始めたのです。本格的に競技へ復帰するのは無理にしても、かつて珠算に一生懸命取り組んだ証を残したいと考えた私は、無謀にも全日本珠算選手権大会の出場権を得る、という目標を立てました。菊地先生にお許しをいただき、教室では娘と並んで練習、自宅では早起きして出勤前に練習をし検定試験に臨み、何とか珠算五段・暗算八段まで辿り着きました。中学時には珠算弐段止まりでしたから、まずまずがんばったとは思います。
 
 かくして平成26年8月8日、晴れて全日本珠算選手権大会に出場することができました。開会式で自分の名前がスクリーンに現れた際には、えも言われぬ感動に包まれたことを覚えています。この大会では驚きの出来事もありました。小学生時代の私を知る伊部ソロバン教室の伊部征子先生が名前を見つけて、声をかけてくださったのです。それがご縁で後日,上原京子先生とも再会でき、夏休みの思い出に貴重な1ページが加わりました(残念ながら一孝先生は既に鬼籍に入られておりました。ご冥福をお祈りいたします)。

 お分かりの通り、私の腕前は一流選手から見れば取るに足らない程度のものです。ですが人生が変わった、という表現が決して誇張でないほどに、私は珠算から多くのものを与えてもらいました。

 まず暗算力の礎を築いてくれました。ここで言う「暗算力」とは計算するだけの半ば機械的な処理能力ではなく、珠算式暗算のアルゴリズム(計算手順、十進法を基礎としての計算)を基盤とした複合的な計算力のことです。「あらゆる計算を頭の中だけで完了させる能力」とでもいえばよいでしょうか。今の子供たちを見ていると、検定試験的な問題には強いのですが、例えば「27打数10安打のバッターの打率は?」「2,500円の商品に対する消費税はいくら?」といったような問題には答えられなかったりします。これは暗算能力があっても、それを活用する術を知らないためです。私は暗算との出会いをきっかけに、日々出会う数字に注目し計算してみる、という習慣ができました。それにより数字が持つ有機的な意味や背景が理解できるようになり、あらゆる計算に強くなったと考えています。先ほど暗算力の「礎」と書いたのはこういった理由からです。この観点からは、珠算教育では競技としての暗算の力を伸ばすだけでなく、それを応用・発展させる指導にもう少し重きを置いてもよいのかもしれません。

 また、ここ一番という場面に強くなりました。基本的に珠算では一発勝負で白黒が決まりますから、必然的に厳しい局面でも最大限のパフォーマンスを発揮して結果を出さなければなりません。そのときは意識していませんでしたが、小学生の頃からこのような場数をたくさん踏ませていただいたことは、後に大きくものをいいました。

 これらが結集して最も活かされたのは大学受験のときです。私の強みは、ややこしい計算が必要となる問題で大きく時間を節約し、浮いた分を他の問題に回せることでした。例えば理想気体の状態方程式では気体定数(0.082)・絶対温度(摂氏温度+273)などの面倒な数値が出てきます。私は暗算のみでそれを素早く処理し、その分思考力を要する問題に多くの時間を割いていました。

 本番当日、会場はピンと張り詰めた異様な空気に包まれていましたが、私は全く緊張せず落ち着いていました。珠算の大会などで数々の似たような経験をしていたことに加え、自分には暗算力という周りの誰にも負けない武器がある、という自信が平常心をもたらしてくれたのだと思います。タラレバの話になりますが、もし珠算と無縁だったならば、医師になるという夢は叶わなかったかもしれません。

 この原稿を書いている今、娘は珠算弐段・暗算四段まで合格、最近始めたばかりの息子はたどたどしい指使いながら六級の練習に取り組み、妻は送り迎えを中心として子供たちを支えてくれています。私がそうであったように、子供たちが珠算を習う意味や価値に気がつくのは、ずっとずっと先のことなのでしょう。「珠算を習っていてよかった!」と笑顔で言ってくれる日が来るのを心待ちにしています。

 最後になりましたが、珠算を習わせてくれた両親、温かくご指導くださった上原先生ご夫妻、子供たちを熱心にご指導くださっている菊地正芳先生、並びに私の珠算人生を支えてくださった多くの皆さまに、深い感謝の意を示したいと思います。



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YELL  VOL.7
~社会の第一線で活躍するそろばんOBからの応援メッセージ~
from 時枝 正和(文部科学省初等中等教育局初等中等教育企画課企画係長)

略歴
※連盟広報誌「全珠連会報」第169号(2016.3)に掲載


そろばんが教えてくれたこと


 1994年、イチローがプロ野球史上初めて200本安打を打ち、世の中がイチローブームに沸いていた年。私は福岡の片田舎で小学校に上がり、イチローに憧れて白球を追う野球少年でした。その年のオフは、多くのテレビ番組でイチローが引っ張りだこでしたが、ある日、クイズ番組にイチローが出演していました。
 見ていると、こんな問題が出ました。「48+35+76は?」瞬時にイチローが答えました。「159じゃないですか?」驚く周囲に対してイチローはこう続けました。

 「僕、そろばんやってたんですよ」

 聞けば、イチローは珠算3級を持っているとのこと。そのため、この程度の計算なら瞬時に暗算できたということでした。イチローに憧れ、振り子打法を真似して毎日バットを振っていた私が、その日からそろばんにさらに真剣に打ち込むようになったのは言うまでもありません。
 
 「努力せずに何かできるようになる人のことを『天才』というのなら、僕はそうじゃない。努力した結果、何かができるようになる人のことを『天才』というのなら、僕はそうだと思う。人が僕のことを、努力もせずに打てるんだと思うなら、それは間違いです」
 この言葉は、イチローの数ある名言のうちの一つです。野球に限らず全てのことに通じるものですが、特にそろばんには当てはまる言葉のように思います。
 そろばんは、努力せずにできるようになる人はいません。逆に、コツコツと努力を積み重ねていけば、誰でも必ず、そろばんの「天才」になれます。
 そろばんを習ったことのある方なら誰でも、そろばんは集中力、忍耐力、思考力など、単なる計算力にとどまらないたくさんのものを学ばせてくれることを知っているでしょう。その中でも私は何より、「粘り強く努力を続けることが、成功へのたった一つの道である」ということを教えてくれるものだと思っています。

 さて、僭越ながら私の話をさせていただきます。私は、福岡県宗像市の若竹珠算学園で、石川千津惠先生からそろばんを教えていただきました。今思い返すと、石川先生のご指導は、「そろばん教室」と聞いて思い浮かべるものとは必ずしも同じではなく、とても特徴的であり、先進的でした。
 私が若竹珠算学園に入塾したのは小学校1年生の時です。石川先生は、小学校低学年の生徒に対しては、そろばんの練習だけでなく、綺麗な字を書く練習や基本的な読み書きについても一人ひとりに丁寧に指導し、これに多くの時間を割いておられました。また、良い姿勢で学習することを非常に大事にされており、「ピシャッとせんね」(「背筋を伸ばして行儀よくしなさい」といったような意味)と、私も友人たちもよく言われていたことを覚えています。ここ10年ほど教育現場で注目を浴びている百マス計算も、石川先生は20年以上前の時点で既に指導に取り入れておられ、生徒たちの達成時間をランキングにして教室に掲示するなど、私たちが練習に取り組む意欲を上手く引き出してくださいました。このような指導の中で、石川先生は一貫して、単なる計算力を身につけるだけでなく、深い愛情を持って、人として基本的な「生きる力」を育てることにご尽力されていたように思います。

 小学校時代は地元のチームで野球をやっていた私は、中学校に入ると野球部に入りました。私の入部した野球部は福岡県大会の常連の強豪野球部であり、平日は毎日20時近くまで練習し、土日は毎週試合に出かけるという野球漬けの毎日になりました。また、小学校の頃から地元の劇団に所属し、中学入学後も演劇も続けていたため、自由になる時間が殆どなくなりました。その頃ようやく「級」を卒業し「段」の世界に辿り着いていた私は、そろばんを続けたいという希望はありましたが、かといって野球部の練習を休むこともできず、これまでのように教室に通うことができなくなりました。「もう辞めるしかないか」そう思い、石川先生に相談してみました。すると、思いもよらなかったことに、「じゃあ野球部の練習が終わってから来たらいいよ」と、私のために、20時半から22時までという時間に教室を開いていただけることになりました。同じような境遇にあった友人も何人かいたため、それからは数人の友人とともに、夜20時半から教室に通う日々が始まりました。このおかげで、野球や演劇を続けながら、最終的に四段まで取得することができました。
 私はこのYELLを書いている諸先輩方と違い、そろばんで日本一を目指すような大会に出たわけでもなく、野球や演劇と趣味のような形で掛け持ちしながら、なんとか四段まで辿り着いた程度の実力です。そんな私の「まだもう少し続けて頑張りたい」という思いに、二つ返事で答えて夜中まで熱心に指導してくださった石川先生には、いくら感謝してもしきれない思いです。

 私は今、文部科学省に勤めています。日本の初等中等教育(幼稚園から高校までの学校教育)全体の企画立案という職務の中で、「未来を生きる子供たちにとって大切な力とは何だろう」と考える日々です。
 そんな中、オックスフォード大学のマイケル・A・オズボーン准教授が、「今後10年から20年で、約半数の仕事が自動化される可能性が高い」という趣旨の論文を発表しました。一時期メディアでも話題になりましたが、科学技術の進歩により現在ある多数の職業が取って代わられ、今の子供たちの多くは現在存在しない職業に就くという、衝撃的な内容でした。そんな未来の子供たちに必要な力は一体何か。これを考え、政策として実現していくというのは、非常に難しい問題です。
 以前、研究振興を行う部署にいた際には、1秒間に1京回の計算ができるスーパーコンピュータ「京」の運用や、その100倍の計算性能を目指す新たなスーパーコンピュータの開発に、予算面の支援などで関わっていたことがあります。
 そろばんの長い歴史の中で、ほんの数十年前まではそろばんができることは実務上非常に重宝されていました。しかし現在では、電卓や表計算ソフトが普及し、人間の限界を遙かに超えた計算が可能な時代を迎えています。計算能力という面では、既に人間はコンピュータに取って代わられており、「そろばんができること」そのものが社会で広く重宝される時代はもう二度と来ないでしょう。
 にもかかわらず、最近、そろばんが習い事として再び脚光を浴びています。「そろばんは右脳と左脳を同時に鍛える」「記憶力や論理的思考能力を育てる」「集中力を高める」など、さまざまな効用が挙げられていますが、私も同様にそろばんを通して大切なことを教えていただきました。
 「粘り強く努力を続けることが、成功へのたった一つの道である」

 あらゆるものがコンピュータに取って代わられていく中で、コンピュータで置き換えることのできない人間としての「生きる力」とは何か。それを教えてくれたそろばんと石川先生に、心から感謝したいと思います。