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YELL  VOL.18 ~社会の第一線で活躍するそろばんOBからの応援メッセージ~ from 須藤憲一 

YELL  VOL.18
~社会の第一線で活躍するそろばんOBからの応援メッセージ~
from 須藤憲一

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<略歴>※全珠連会報第180号(2019.11)に掲載時点
 昭和48年9月26日生まれ。現在45歳。新潟で28代続く浄土真宗大谷派の家に生まれ、父の仕事で20数カ国で育つ。
 東京大学大学院博士課程修了(人文社会研究科、宗教学宗教学史専攻)他にオーストラリア、ミャンマーなどで学位を取得。
 ミャンマーで研究後、日本に帰国。その後、子供たちにさまざまな習い事をさせ、そのなかでも長女の弥勒はジュニアゴルフ界でさまざまな記録を樹立。
 現在、茨城のゴルフ5サニーフィールドに勤務しながら、娘の指導にあたっている。


◆「娘さんの成功した秘訣はなんでしたか?」と聞かれたら胸を張って答えたい。
「そろばんこそが、娘を伝説のプロゴルファーにした最大の要因です!」と。

※本文より抜粋

 我が娘、須藤弥勒が「天才ゴルフ少女」として取りあげられてからだいぶ時が過ぎた。娘は5歳のときにIMGA世界ジュニア選手権で50年間破られていなかった記録を破り、史上最年少のチャンピオンとなり脚光を浴びた。連日メディアが家に押し寄せ、お茶の間を賑わしていた時期が長らく続いたので覚えている方もいらっしゃると思う。翌年、娘は再びアメリカの同選手権で優勝し、史上最年少連覇という快挙を成し遂げた。
 
 なぜ、たかが幼稚園児、小学校1年生のゴルフ大会でこれほど騒がれたかと不思議に思われる方もいると思うので、少し説明させていただこう。ゴルフの世界ジュニア選手権は、毎年アメリカのカリフォルニア州サンディエゴで開催され、世界52力国、米国本士の48州から予選を勝ち抜いた1,500人のジュニアゴルファーが集まり世界一を競う、文字通り世界のナンバーワンジュニアゴルファーを決める大会である。各国のジュニアゴルファーたちが、6歳以下から17歳までの年代別にわかれて真の世界チャンピオンが誰かを決める52年の歴史を持つ、ジュニアゴルフ界最高峰の大会である。少し鎛をつけるために過去の優勝者たちを記載すると、伝説的なゴルファー タイガー・ウッズ、フィル・ミケルソン、アーニー・エルス、女子でいうならロレーナー・オチョア、その後、プロの世界を席巻していく名プレイヤーたちが、子供の頃にこのタイトルを獲得している。ちなみに日本からは池田勇太や畑岡奈紗などがワールドタイトルを獲得しているものの、宮里藍や石川遼など名だたるプレイヤーは日本予選は突破してはいるが、世界では優勝していない。あの、タイガーですら初めて優勝したのが8歳のときだったのだから、娘の5歳での優勝がどれほどの快挙だったか、説明するまでもないと思う。とにかく、ジユニアゴルフ界では凄いことを成し遂げたのだ。(笑)

 さて、娘、弥勒のことに話を戻すが、弥勒は 1歳半のときにゴルフを始めた。正確にいうと兄、桃太郎の練習を横から見ていた際に、サボリ癖のあるお兄ちゃんが「トイレにさぼりに行った」際、暇を持て余していた私が、弥勒に「やってみるか」というなんの深い考えもないなか、オモチャのクラブを振らせてみたのがきっかけだった。

 親バカではなく1球目から凄かった。これは多分下の子の特徴というか才能なのだろうが、上の子の観察で得た学習能力というか、まあとにかくお兄ちゃんが日頃からゴルフクラブを振るときに私からいわれていた注意点をしっかりと把握していた。びっくりすることに空振りすることもなく、「パン、パン」といい音を鳴らしながら 1球、1球を黙々と脇目も振らず打っていった。

 お兄ちゃんをいかに打たすかで苦労していた私は、弥勒のゴルフクラブを振る姿を見て驚嘆した。生まれ持った才能というものが、どのようなものかを実感した初めての瞬間である。そこから、すぐに妻を呼び、トントン拍子に話しが進み弥勒の本格的なゴルフ練習が始まったのだが、これがどうそろばんに関係しているか、ここまで読んで疑問に思った方も多いと思う。

 実は、弥勒のゴルフの成長と成功にあたって、人にはいえない「成功への秘訣」というものが何点かある。いわば門外不出の虎の巻の練習の仕方だったり、道具の選択だったり、食べ物だったり・・・逆にいえば、メディアで出た我が家の情報などは誰が真似をしても構わない、たわいもないものだと考えてよい。

 さて、その「門外不出の成功の秘訣のーつ」に“そろばん”がある。この原稿の依頼を全国珠算教育連盟からいただいたときに、妻がそろばんの重要性を説いてしまうので、断った方がよいと言ったほど、うちにとってはこれがゴルフの成功とどう結びつくか、本来なら触れたくも解説もしたくないのだが、うちの3人の愚子が言葉で言い表せないほどお世話になっている群馬県支部長であり、師匠である吉沢先生のお願いを無碍にお断りすることもできなく(笑)、どうせ書くならトコトン説明してしまえと、今回の執筆に至った。

 弥勒は3人兄弟の真ん中に生まれた。上から兄、本人、弟の構成で結構なんでもこなせるタイプだ。そろばんをはじめるきっかけは兄・・・の影響というよりは妻の影響が大きかったと思う。実は家内も私も自分たちの幼い頃、習い事としてそろばんをやっている。私などは本当に「ただ通うだけ」の月謝納めのような生徒だったが、それでも九九ができるようになったのはそろばんのお陰だったと自負している。家内はもっと本格的で幼稚園から中学校にあがるまで毎日そろばん教室に通い一応有段者である。(らしいではなく、本物の有段者であり、何故そうかと断言できるかというと、子供たちが始めて2年ぐらい経ったとき、少し進歩が遅れ、刺激を与えるために妻も子供たちに混じり同じ教室の同じ時間帯に自らも通い、弐段を取得したからである)

 その家内が子供の頃、出ていた競技会でいつも鉢巻きをして他のそろばん教室を圧倒していたのが、現在子供たちが毎日通う「あけぼの珠算学校」である。幼い頃の家内は、ずっと「あけぼの」勢に憧れをもっていて、自分が母親となり、子供たちが習い事をできる年齢になったら、絶対にそろばんに通わすと子供ながら自らに誓ったらしい。そこで私の研究が一段落して家族で日本に帰国した際に(ずっと研究でミャンマーにいっていたので)いの一番で、子供たちに(現在8歳である長男はそのときまだ3歳になったばかりだった)そろばん教室に通わせたいと申し出てきた。私はまだ早いと反対したが、妻の剣幕に押され、反駁(はんばく)諦め加減で承諾したが、結果これが子供たちの人生を大きく好転させた。本当に今、考えてみるとあれは人生の大きな節目であり、ひょっとすると成功をするかしないかの分岐点のーつだつたとも大袈裟ではなくいえるのかもしれない。

 というのも、そろばん教室に通わせて、そのうえで親が真剣に家で復習なり勉強させることにより、子供たちにそろばんならではの「秘密兵器」を伝授した。ただ、そろばん教室に行っているだけでは身につかないが、しっかりと親の監視のもと超真剣にそろばんに取り組んだ場合、他の競技や習い事では身につかない「絶対的な集中力」が身につく。

 この点を少し補足したい。まず、このことに触れる前にただの厚顔無恥の人間が戯言をいっていると思われないように、私のことを少しだけ書かせていただきたい。自分のことを宣伝しなければならないので大した人間ではないが、一応東京大学大学院にて博士課程を修了した。これが、どのくらいの意味を持つのか、自分でもよくわからないが、「一応」学歴社会の日本では何かを発言するときに、ささやかな気に留めていただく、塵のような鎛にはなるだろう。まあ、私のことはどうでもよい、集中力のことに話を戻そう。

 物事を行う際、集中力が大切だとよくいわれるが、この世間一般でいわれる「集中力」にもいろいろな種類のものがある。私の経験上、長時間続く持久的な集中力。やや、やんわりしているが、ことを運ぶには不可欠だが、常にスコープのように研ぎ澄ませたようなものとは違う、例えば車の運転に使うような集中力はこの類のものだ。中期的なもの、横にいくようなもの、斜めにいくような集中力などさまざまなタイプがあるが、そろばんは短期的な「じょうごのような、水を一点に流すような集中力」を作るのに最適だ。これがどのようなものか、実際にそろばんに本格的に触れたか、携わった人しかわからないと思うが(故にこの投稿を読まれている方々の殆どの方が私が今何を書こうとしているか理解していただけることを信じている)要は簡単にいうと短から中期に入る手前の集中力を人間の中で構築していくためには、これ以上ないほどの素晴らしい習い事なのだ。

 例えば、読上算などをみればよくわかる。読上算の場合、聞き手(計算する方)は絶対に聞き漏らさないように全身の神経を研ぎ澄ませ、なおかつ他の人が横で動いていてもそれに囚われることなく、自らの頭、指と読み手の声だけの世界を作りあげる。読み上げている何十秒の間で一瞬たりとも、その神経(絶対的集中力)を解放することはない・・・なぜなら、それをやってしまった途端に問題にはついていけなくなっているからだ。桁が大きくなっていけば、アイドリング状態の集中力では読み手には絶対についていけなくなる。故に知らず、知らずとそろばんを真剣にやる子供たちは、他の習い事で身につかないような一点性(針に糸を通すような)集中力を身につけることができる。

 これが、子供たちの全ての他の習い事、そして学業にも役にたった。よく、親が「そろばんをやったお陰で学校の算数ができるようになった」というが、これは私からみたらそろばんの副作用であって1番大切な本質のよい部分ではない。基礎とはいえ、現在の社会の数学はかけ算や引き算、わり算、足し算ができたところで満点が取れるほど簡単なものではない。この「学校の算数ができるようになった」だけでは、親たちにとってそろばんは小学校高学年で「お役目御免」の習い事でしかないだろう。

 ただ、そろばんの本質の効能と素晴らしさを知った人間は、そろばんはただ玉を弾き、算数の答えを導き出す道具ではないことを知っているはずだ。(計算だけなら計算機や計算機検定を取った方がよいかもしれないし、もっというならばパソコンに計算させた方が間違えなく効率がよい) 

 違うのだ。弥勒のゴルフ、特にプロをも凌くこともあるパターなどは、ほぼ全て「そろばんの集中力」からきている。グリーンを読む計算や、スコアの瞬時の駆け引きはもちろんのことだが、瞬時に自らのZONEに入れる高い一点性の集中力は間違いなく「そろばん」からきている。

 世界ジュニア選手権でも最終日最終組、アメリ力人の選手のお母さんがそのキャディーを務めていたのだが、弥勒がパターを打つ瞬間、傘をパッと広げたり、クラブを倒したり、見ているこちらの方が首根っこを掴んでやろうかと思った。しかし、当の本人は何事もなかったように「淡々」とパターを何食わぬ顔で決め、私が何を怒っているのかわからないようであった。

 そのとき、娘を出したそろばんの競技会のことを思い出した。 3歳のときから群馬県の市や県の大会に出場し、集中力の「場馴れ」をしている娘にとって自分の集中世界は多少のことでは崩れないほど確立されたことを・・・。そしてこれこそ、まさにゴルフで如何なく実力を発揮できた秘訣であることを。

 現在、年齢的にもだいぶ大きくなってきて、コルフの練習も今や10時間以上になった。学校にいく時間も減った。習い事もだいぶ少なくなり、犠牲になるものも多くなったが、娘はそろばんだけは続けている。本人の意思でだ。子供ながらにこれこそが、自分の成功の秘訣であるということがわかっているように。

 今後、娘が皆が期待しているような歴史に名を残す選手になったときに、もし記者などに「娘さんの成功した秘訣はなんでしたか?」と聞かれたら胸を張って答えたい。

 「そろばんこそが、娘を伝説のプロゴルファーにした最大の要因です!」と。

YELL VOL.17 ~社会の第一線で活躍するそろばんOBからの応援メッセージ~  

YELL  VOL.17
~社会の第一線で活躍するそろばんOBからの応援メッセージ~
from 高山 辰則

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<略歴>※全珠連会報第179号(2019.7)に掲載時点
・1974年生まれ
・2001~2014年 IT業界にてプログラマとして勤務
・2008年より兵庫県小野市在住
・2014年~ 伝統工芸士 宮本一廣氏の下にそろばん組立職人として弟子入り


 2014年夏、私はこれまで働いてきた業界から全く正反対であるそろばん組立職人としての一歩を踏み出しました。
 
 「自分の住む街とは、一体どういう街なんだろう」

 そんな疑問からことが動き始めました。小野市にはあまり長く住んでいたわけではないので、それほど詳しくはありませんでした。これから永住する予定である街なので、知っておいて何一つ損はありません。

 いつもとは違った視点で街を歩くと、「そろばん」というワードの多さに気づきました。そう、小野市は「そろばんの街」だったのです。

 そのとき、ほんの数か月ほどではありますが父にそろばんを教えてもらった記憶、あまりよい記憶ではないのですが、よみがえりました。いまでもまだ実家に置いてあるそろばんを手に取って見てみると、なんとそれは小野市で作られたそろばんでした。これからこういったそろばんを自分が作るのかと思うと、胸がドキドキしてきました。

 さて、実際にそろばんを作ってみると、自分が思っている以上に手間のかかるものだとわかりました。見た目は単純そうに見えるのに、簡単には完成しない。そろばんに対する私の考え方が大きく変わりました。

 その辺りに放置していそうな粗雑な小さな木から、それは指先で愛でたくなるくらいまで磨き抜いて仕上げます。そのほとんどを手作業で行っていることに驚きました。機械を使うことはあるのですが、機械を使ったからといって自動でできる作業はありません。こちらが機械に対して、何かしらのアクションを起こさなければなりません。我々の想像を超えた手間のかかりすぎる作業ばかりなのです。

 だからといって手を抜いてしまっては使う方に失礼です。指先の痛みに耐え、手の感覚を研ぎ澄ませながら日々の修業を重ねていきました。

 ものづくりは、「1+1=2」とはなりません。出る答えが毎回微妙に違うのです。それをできる限り同じ答えに近づけていくように作業をしているのですが、なかなか思うようにできません。

 私の師匠がよく言う「職人は、一生勉強や」という言葉が徐々にわかってきました。60年のキャリアから発せられる言葉に重みを感じました。
  
 計算器具としてのそろばんは正しい答えが一つになりますが、製品としてのそろばんは100人いれば100通りの答えがあってもおかしくないのです。全ての人に気に入ってもらえるようには作れませんが、できるだけ多くの人に気に入ってもらえるように作っていこうと、日々努力をしています。

 最近になって引退される職人さんがポツポツ出始めてきたので、一人ひとりにかかるそろばん製作に対する責任が増してきました。一層気を引き締めて修業をしていかなければならないなと感じています。

 そろばんの製作とは別に、実演や体験など外に出ることが多くなりました。私は人前で話すことが極度に苦手なのです。今までもできるだけ人前に出て話をするのを避けて過ごしてきたくらいです。知っている人の前でも緊張するのに、それが知らない人の前となると心臓が口から出てくるかと思うほどです。

 嫌だからといって逃げていては何も進みませんし、変わりません。自分の発した言葉がどうだったのかを毎回振り返って、よかったところは次もそのレベルを保ち、悪かったところは修正して次につなげる、ということを繰り返してきました。

 なんと私の師匠は「作ってしゃべれる職人(笑)」なので、どのように話せばよいのかも丁寧に教えていただくことができました。師匠からは、どちらかというと失敗談を聞くことの方が多く、何もできない私には参考になることがたくさんありました。

 それを踏まえ実践練習を何度もすることで、日増しに話すことは楽になってきましたが、未だに苦手意識は取れないままです。これは人生経験と努力を積んでいけば変わっていくのかな、と前向きに考えています。

 組立職人として、そろばんの枠の作りも見て欲しいなと思うことが多々あります。ただ、使う人にとって重要なのは珠の動きなのでそれは仕方のないことであると理解はしています。ただ、自動的にできあがるものではないという視点から、少しだけでもいいので丁寧に手をかけた外面の仕上げを気にかけてもらえるとうれしいです。

 現在は、数年経たないうちにそろばん職人情勢が変わっていってもおかしくない状況になってきています。職人が減ると、今までのように簡単にそろばんが手に入らないかもしれません。そうなるまでに、私は次の世代に伝えられる技術を習得できるように修業していきたいと思っています。

 私がそろばん組立職人になって思ったことですが、今までやってきたことはもちろん何も無駄にはなっていません。
 ・現状を把握すること
 ・現在から未来へ見通しを立てて行動すること
 ・努力すること
 ・継続すること
 ・諦めないこと
たとえ業界が違えども、根底は同じです。努力をすれば必ず実を結ぶとはいえませんが、目的を達成できた人は何かしらの努力をしていると思います。ただ、駄目だと思ったらスパッと諦めて転換することです。損切りは大切!

 これからも色々な場所でそろばんを伝えていくことになると思います。たくさんのそろばんの使い手の方々と、いつかどこかでお会いできることを楽しみにしております。

YELL VOL.16 ~社会の第一線で活躍するそろばんOBからの応援メッセージ~  

YELL  VOL.16
~社会の第一線で活躍するそろばんOBからの応援メッセージ~
from 大内 幹博(パナソニック株式会社 珠算部監督)

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※大内氏は右から2番目

<略歴>※全珠連会報第178号(2019.3)に掲載時点
・1969年
 大阪府守口市生まれ
・1977年
 珠算学習を開始
・1994年
 大阪大学大学院 工学研究科 通信工学専攻 修士課程卒業
 松下電器産業株式会社(現パナソニック株式会社)入社
 同社珠算部に入部
 入社以来、放送・通信分野の研究開発に従事
・1998年
 珠算選手を引退
・1999年
 同社珠算部コーチに就任
・2013年
 同社珠算部監督に就任


 私は小2進級後すぐに珠算を習い始め、松下電器(現パナソニック)に入社後、放送・通信分野の研究開発に従事しながら、29歳まで珠算部の選手として活動しました。その後、現在に至るまで、コーチや監督として部をサポートする立場にあります。この原稿では自分の珠算選手生活を振り返り、最後に私が実体験として感じていることを現在珠算を習っている方々への応援メッセージ(エール)としてお伝えしたいと思います。

珠算選手生活を振り返って

 小学校入学後は算数が得意科目で、小2進級直前に両親に「そろばんを習いたい」と言いました。両親は子供の頃はよく遊んだ方がよく、「習うのは小3からでよい」という考えでしたが、私はすぐに習いたい気持ちが一杯で、譲りませんでした。両親は「自分から習うと決めたのだから、どんなことがあっても休まないこと」と条件つきで、小2進級後、すぐに習うことを認めてくれました。
 習い始めて1年後に小3で初めて出場した大会で優勝し、他ならぬ私自身が一番驚きました。それからは塾の中だけでなく、大会で他の塾の選手と競い合う楽しさを覚えました。もちろん負けることもありましたが、「次はもっとがんばるぞ」とかえって闘志が湧きました。小学生時代は実力もグングンと伸び、辛いと感じることはほとんどありませんでした。しかし、中学校に入学した頃にはある程度実力がついていたことで急激な実力の伸びを実感できず、初めて苦しさを感じました。
 また、中学生といえばそろそろ色気づく頃でもあり、部活動をせずにそろばんに打ち込んでいた私は、サッカー部などスポーツに打ち込んでいる同級生が格好よく見えました。「何故、ちまちまとそろばんなんか続けているのだろう?」そんな気持ちが心の中に芽生えました。しかし、私はどうしてもそろばんをやめることはできませんでした。それまでがんばり続けてきたことが自分の自信の源であり、また大いなる誇りであったからです。やめてしまいたいという気持ちと、がんばろうという気持ちの間で葛藤しながら、時が経つにつれてやめたいという気持ちが消え去っていきました。中2以降、大阪府の一般の部まで含めた年上の超一流選手と合同練習をする機会を得て、その方々の真摯に取り組む姿を間近で見たことが、そのような雑念を消し去る決定打となってくれました。そしてこの合同練習が私にとってもう一段飛躍するきっかけとなりました。
 会社(松下電器、現パナソニック)に珠算部があり、入社後から29歳まで選手として活動しました。その後、現在に至るまで、コーチや監督として部をサポートする立場にあります。社会人ともなると全国に選手仲間ができ、それが貴重な財産となりました。今でも、仕事と両立して大会に出場している社会人選手に大きな刺激を受け、私も仕事などで大いにがんばらねばと、いつも気持ちが引き締まります。

仕事人として

 中学までは好きだった数学が、その分量の多さに高校ではあまり好きではなくなり、得意科目はどちらかというと文系科目でした。相当迷って興味のある理系に進み、工学部通信工学科に入学しました。その原点は小学生時代にあります。元々宇宙に興味があり、宇宙船ボイジャーが撮影した木星や土星の写真に大きな興味が湧きました。でも決定的なことは、小学校高学年でラジオに興味を持ったこと。きっかけは忘れましたが、高価なラジオでは例えば遠く離れた英国BBCの番組が聞けるらしいと知り、親にねだって買ってもらいました。入社後に放送・通信分野の道に進み、その英国BBCの研究者たちと約10年前に英国で実験をしたことは大変感慨深かったです。
 私は会社では技術開発を行っているため、数字を扱うことが多く、そろばんで培った計算能力や計数感覚が大いに役立っています。また集中力や粘り強さには自信があり、業務上の困難を乗り越える大きな力になっていると実感しています。

現在珠算を習っている方々への応援メッセージ(エール)

 まずは塾の中で目標とする人を見つけて、ぜひ練習の中でお互いに競い合ってください。競い合うことで、自分一人では発揮できない力を引き出せることがあります。また、たとえ検定試験に落ちたときでも決してくじけずに、さらに練習に励んでください。そうしているとすぐに効果が現れなくても、あるときに急に実力が伸びることがあります。練習により、目に見えない形で実力が貯金されていく、ということです。また珠算以外にもいろいろなことに興味を持ってください。その興味が将来自分の進む道につながり、その道でも珠算で培った集中力や粘り強さがきっと自分を助けてくれるでしょう。

YELL ~社会の第一線で活躍するそろばんOBからの応援メッセージ~ 

YELL  VOL.5
~社会の第一線で活躍するそろばんOBからの応援メッセージ~
from 武藤 洋一(群馬テレビニュースキャスター)

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<略歴>※全珠連会報第167号(2015.7)に掲載時点
昭和23年 群馬県伊勢崎市生まれ
県立前橋高校、明治大学法学部卒
昭和46年 上毛新聞社入社 主に社会部畑を歩む
平成16年 取締役編集局長
平成20年 前橋工科大学非常勤講師
平成24年 群馬テレビニュースキャスター(現職)


放送時間は暗算で

アメとムチ
 昭和33年春、東京六大学野球でホームラン8本を打った長島茂雄がプロ入りした。開幕1軍はもちろん、スタメンで3番。4番はあの「打撃の神様」川上哲治である。開幕戦は相手の国鉄(現ヤクルト)先発金田正一が「プロの厳しさを教えたる」とばかりに全力投球。長島は4打席4三振だった。しかし、それからは打ちまくった。シーズンが終わってみれば打率は2位だったが、本塁打王、打点王を獲得。スーパースターの誕生だ。私は小学校4年生。野球ばかりしていた。だれもが長島と同じ3塁を守りたがり、銭湯に行けば長島の背番号「3」の下足札を奪い合った。
 そんなとき、父がこんなことを言った。「定時制高校で勉強している生徒が昼間は会社でアルバイトをしていた。その会社で経理の人たちが数字を読み上げてそろばんで計算していたが、何度やっても合わない。そのときにこの青年がお茶をいれながら、頭の中で計算をしていた。脇から恐る恐る『正しい数字はこれですよ』と言った。そろばんができる。暗算がすごいということで、卒業と同時にその会社に就職できたそうだ」。父の話はこのあと「だからそろばんを習え」と続いたのは言うまでもない。
 プロ野球シーズンが終わったその年の11月、近くの松岡珠算塾へ通い始めた。2年2カ月後・・・小学校卒業寸前の6年生の1月に1級合格を果たしたが、そのちょうど半分にあたる1年1カ月は2級に挑戦していた。何度も何度も落ちた。先生いわく「野球やってちゃ受からない」。軟式とはいえボールを強く握る行為がそろばんを弾く指にいいはずがない。私にそろばんを勧めた父は「2級が受かったら新しいグローブを買ってやるから、それまで野球はするな」とアメとムチで迫ってきたが、相変わらず続けた。そしてようやく受かって買ってもらった。1,250円。2級合格より、グローブの方がうれしかった。もちろん55年たった今も使える状態だ。

「勘定板」と「壺算」
 高校ではそろばんに触れる機会はなく、大学でも無縁だった。だが、落語が好きで寄席に通った。そこで聞いた話をしよう。一つは「勘定板(かんじょういた)」。尾籠(びろう)な話で申し訳ないが、あらすじはこうだ。海に近いところに住んでいる田舎者が江戸の宿屋に泊まる。その村ではトイレのことを「閑所(かんじょ)」と呼び、用を足すことを「カンジョウをぶつ」と言った。浜辺には紐をつけた「カンジョウ板」があり、用事が済むと紐を引いて海で洗うシステムだ。村人は宿で用を足したくなり、番頭に「カンジョウをぶちてぇ」と頼む。番頭は「どこで?」。村人は考えた。「海は遠いし・・・この部屋はどうも・・・そこの廊下でぶつべぇ。カンジョウの板持ってきてくれ」。「カンジョウ板ですか?」。番頭はいろいろ想像してみた。「カンジョウ、カンジョウ・・・勘定をする板・・・きっとそろばんだろう」と底に板が張ってある大きなそろばんを持ってくる。村人が用を足そうとそろばんを裏返しにしてまたがると、転がり出した。「こりゃすげぇ江戸のそろばんは車仕掛けだ」。
 もう一つの「壺算」。今はあまり見かけなくなった壺を買う話だ。壺の大きさは「一荷(いっか)」「二荷(にか)」と数える。本当は二荷の壺を買いたいのにまず一荷の壺を3円で買う。一旦店を出てすぐ戻り「本当は二荷の方がほしかった。取り替えてくれ」。ここからこの男と店の親父のやりとりになる。「さっき一荷の壺が3円だったけど、二荷はその倍の6円でいいかい。オレはさっき3円渡したなぁ」「はい。確かにいただきました」「さっき買ったこの一荷の壺は3円だから足して6円だ」「?????」「分からねぇのかい?…そろばん出してみなよ。いいかい。さっき3円渡したろ」「はい。確かに」「それとこの壺が3円だ。合わせりゃ6円じゃねぇか。この二荷の壺をもらってくよ」。
 そろばんを習った人ならだまされないだろう。

消費税導入
 時代が平成になって消費税が導入された。3%とはいえ事実上の値上げだ。こんな不公平な話はない。「すべて一律に3%だから公平だ」という見方もあるが、収入の多い人と少ない人では、消費税分にかかる負担は違う。それはともかく、何を買っても3%を余分に払うことになった。
 どうせ払うなら、何か痛快なことはないか考えた。結論は・・・。商品の価格に1.03を掛けて合計金額を暗算する。小銭を用意しておいて、レジ係の人が「○○円です」と言うのと同時に、つり銭なしのピッタリのお金を受け皿に出す。目を丸くするレジ係。得意そうにウンとうなずきながらレシートを受け取って引きあげる。
 しかし、そんなシナリオはなかなかうまくいかない。久しく遠ざかっている暗算の腕前は情けないほど錆びていたからだ。合計金額が3桁なら何とかなったが、4桁以上は「はずれ」が多く、返り討ちにあった気がした。
 そして5%。このときは楽だった。3%は1%の3倍だが、5%は10%の半分。計算は楽になり、暗算の腕をあげるには役立たなかった。だが、8%になって再び頭を高速回転させる必要が出てきた。 100円の税込金額は 108円と即答できても、スーパーの価格はほとんどが1円単位。それに1.08を掛けるのは容易でない。しかし、そこが頭を鍛え、そして老化させないことにつながるのだ。
 今度は10%になるという。この暗算は楽だ。昨年春から8%にしたことで日本経済はしばらく滞ってしまったため、さらなるアップに懸念の声もある。計算は楽になっても、生活は楽にならない。

タイムキーパー
 3年前の3月から、群馬テレビのニュースキャスターをしている。月曜から金曜の夜8時~9時のニュース番組。22歳からずっと続けてきた新聞界から、63歳になってテレビ界への転身だ。ニュースを扱うことでは新聞もテレビも同じだが、紙媒体と電波媒体はまったく違う。記者は書き損じても書き直せばいい。適当な言葉が出てこなければ辞書や文献、資料を見直せばいい。記者は紙面に出ることは少なく、ペンだけで社会を斬ることを生業(なりわい)としている。しかし、電波、それもニュースは生放送だ。言い淀むことも許されない。
 もう一つの大きな違いは時間が決められていること。新聞も紙面のスペースは決まっているが、窮屈に詰め込んだり、見出しや写真を小さくすれば入らないとあきらめていた記事が入る。だが、テレビは秒単位。タイムキーパーという仕事があって、1時間の番組の中で「何分」あるいは「何秒」遅れている、もしくは早すぎるという合図をするわけだ。だが、それはキー局でのこと。地方の小さなテレビ局では、サブディレクターが兼ねていることが多い。私が関わっている番組もそうだ。兼務だから、そう細かい指示はできない。
 そこで、キャスター自身が時間をチェックしている。女子アナの読むニュース原稿を隣で聞きながら、何秒早いとか遅いとか。そしてそのあとの原稿が何分何秒の予定だから合わせて何分何秒・・・次のCMは、このままだと何秒遅れになるから、私のコメントは短めにしよう。これは暗算のなせる技。初めのうちは面食らったが、「石の上にも三年」。楽しく放送させてもらっている。

YELL VOL.4 ~社会の第一線で活躍するそろばんOBからの応援メッセージ~ 

YELL  VOL.4
~社会の第一線で活躍するそろばんOBからの応援メッセージ~
from 梅村 敏明(天台寺門宗総本山園城寺(三井寺)執事・妙厳院住職)

三井寺 写真
<略歴>※全珠連会報第166号(2015.3)に掲載時点
昭和26年滋賀県大津市生まれ
龍谷大学文学部史学科卒業
現在、天台寺門宗総本山園城寺(三井寺)執事・妙厳院住職


縁を感じて

 最初に告白しておきます。私にはそろばん教室に通った経験はありません。そろばんだけではなく、他の一切の習い事もありません。私は兄弟3人の末っ子として生まれ、父親は地方公務員でしたので、経済的にも余裕がなかったのでしょう。とにかくやんちゃで、2つ上の兄がべそをかいて帰ってくると、仕返しとばかりに家を飛び出して行くような小学校時代でした。
 学校の授業の一環としてそろばんがありましたが、授業中に1から9までを算盤に置いて、同じことを9回繰り返すと「1111111101」になる遊びを先生に見つからないようにやっていたことを思い出します。
 中学では野球部に籍を置きました。非常に厳しい監督さんでした。現在では考えられないことですが、手は飛んでくる、バットは飛んでくる、真夏の練習でも水は一滴も飲めない、監督が気に入らなければ「よし!」の号令がかかるまでグラウンドを何周も走らされる毎日でした。しかし、そんな辛い練習をみんなで乗り越えてきたからこそ、チームには結束もあったし、友情も生まれたように思います。50年近く経った今でもそのときのメンバーとは年に数回会って楽しい時間を過ごしています。
 その厳しい監督のあだ名を「モグラ」というのですが、その来歴はどの先輩に聞いても知らないらしく、酒席の場ではいつも話題に上るのですが、最後には「やっぱりモグラに教えてもらってよかった」に話は落ち着き、お開きになるのです。私が大学生のときに監督は海外で不慮の事故に遭われ、亡くなられたそうです。海外にも野球指導で行かれていたということを後で聞かされました。とにかく学生野球界では有名な存在でした。尊敬する大先輩でもありました。
 高校でも硬式野球をやりましたが、先輩と折りが合わず中途退部しました。2年生の夏休みに奈良の法隆寺に友達と行ったとき、夢違い観音像を見て感動し、売店で売っていた観音像の頭部のレプリカを買って、それを版画にして翌年の年賀状に刷り込んだことがありました。それ以来、仏教に興味を抱くようになり、本を読んだり、休みにはお寺に行ったりと、以前とはずいぶん違う時間を過ごしたように思います。
 大学では仏教史学(仏教彫刻)を専攻しました。将来は博物館へとの希望もあって、学芸員の資格も取得しましたが、夢は叶いませんでした。卒業後は市役所の嘱託として文化財の仕事をしました。その最初の仕事が、文化庁による「重要社寺集中調査」の補助員として三井寺の文化財調査でした。
 昭和50年の夏でした。文化庁美術工芸課の彫刻、絵画、工芸、書籍典籍担当の専門技官による三井寺の文化財悉皆調査です。私は書籍典籍担当技官の調査補助員となりました。文字は草書体や崩し字なので、何と書かれているのか私にはさっぱり解読できない文書をいとも簡単に読み下すのを目の当たりにし、すごい人がいるものだと唯々感心するばかりでした。
 当時は開発事業が盛んで、開発に伴う発掘調査が全国的に行われていました。大津市でも宅地造成に伴い、大津宮関連遺跡調査に携わったり、古墳の発掘調査を行ったりと、考古学は素人の私も人手不足というので駆り出される日々でした。
 文化財に関われている毎日を楽しんでおりましたが、所詮嘱託の身。文化財専門職員には定員があり、今後正職員になれる見通しもつかないのを見かねた課長から、京都に仏教美術を専門に出版している会社があるが、梅村君どうかと話がありました。文化財関係の仕事を離れることには寂しさがありましたが、結婚間もない私は、人生の先輩である課長の勧めに従って出版社にお世話になることを決断しました。嘱託として4年、文化財の仕事をしました。
 京都の仏教美術専門出版社でのサラリーマン生活が始まりました。編集者数人の小さな会社でした。その会社の社長は、三井寺住職が高校の教師をしていた時の教え子だったのです。そんな縁で会社は三井寺が発行している「季刊誌三井寺」の編集を請け負っていました。会社が京都市にあって、私の自宅が大津市にあるものですから、季刊誌の原稿受け取りや、校正紙の届けなどでよく三井寺に立ち寄ることがありました。住職にも可愛がられて、夕食まで戴いたことも何度かありました。
 しかし、入社後3年を過ぎたとき会社が倒産しました。住職に今までのお礼と経緯をお話しするためご挨拶に伺うと、「これからどうするのや。うちに来て季刊誌の編集と寺の文化財のことをやらんか」と言っていただき、三井寺に奉職することになりました。
 考えてみると、市役所の嘱託員として初めての仕事が三井寺文化財調査であり、会社員としても「季刊誌三井寺」を通して関わりがあって、三井寺との縁を感じずにはおられません。
 三井寺に奉職して7年、住職から突然「お前も大峰(修験行場)に行って来い。得度してやるから、お坊さんとして修行して来い」と言われました。三井寺では毎年5月、大峰奥駈修行があり、山伏姿で山に分け入ってただひたすら歩き、自然と一体となることにより、霊験を戴くとともに、自然を崇敬し、自己研鑽をするのです。
 「こいつなら坊さんとしてやっていけるだろう」と7年間見ておられたのでしょう。以来27年、三井寺の文化財に深く関わってきました。国宝や重要文化財の修理、大きな展覧会も経験しました。学生時代には仏像は研究対象でした。しかし、お寺に来てからは仏像は礼拝・信仰の対象であるということを改めて肌身に感じました。それは街角の小さな祠や山間のお堂にひっそりと祀られている仏像であろうが、国宝や重要文化財に指定されている仏像であろうが信仰にはまったく差がないことを、僧侶となって知らされたことでもありました。
 私がおります三井寺観音堂は西国第14番札所です。連日札所巡りの善男善女のお詣りが絶えません。その観音堂境内から大津の街並みや琵琶湖が一望できる高台に「大津そろばん顕彰碑」があります。昭和50年12月、全国珠算教育連盟によって建立されたものです。25日には関係者出席のもと除幕式が執り行われました。
 三井寺近在の東海道筋に住む片岡庄兵衛は慶長17年(1612年)、中国式そろばんを参考に研究を重ねた末、日本式そろばんの基礎を打ち立てました。以来 300年の間、大津そろばんは全国に広まり、隆盛を極めました。
 毎年4月29日、日頃お世話になっているそろばんに感謝するとともに、さらなる技術の向上を願って「そろばん祭り」が全国珠算教育連盟滋賀県支部主催により顕彰碑の前で行われます。そろばん教室に通う子供たちによる競技会も同時に開催されます。
 また、観音堂に文政11年(1828年)に奉納された関流の算額があることから、昨年同志社中学より算額が奉納されました。近年、中学校において数学教育が重視されているようです。自分が作った数学問題が 200年、 300年先まで堂内に掲げられるなんて、なんと夢のあることでしょうか。
 皆さんも難問・奇問を後世の人たちに出題してみてはどうでしょう。

YELL VOL.3 ~社会の第一線で活躍するそろばんOBからの応援メッセージ~ 

YELL  VOL.3
~社会の第一線で活躍するそろばんOBからの応援メッセージ~
from 親泊 ひより(東北大学医学部医学科)

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<略歴>※全珠連会報第165号(2014.11)に掲載時点
沖縄県浦添市生まれ
平成21年東北大学医学部医学科入学
現在同大学6年生
全日本通信珠算競技大会4年生以下の部で個人総合競技3連覇


 私は現在、東北大学の医学部に通う大学6年生です。今回、数々の素晴らしいOBの方々に混じり、恐れ多いのですがこの「YELL」を書かせて頂くことになりました。そろばんを卒業した今でもこのようにそろばんとの縁は続いており、とても幸せなことだと思っています。

 まず、そろばんとのなれそめからお話しようと思います。私のそろばんとの出会いは少し変わっていたかもしれません。私は沖縄県浦添市で生まれ、幼稚園生のときに、そろばん教室に併設されていた体操教室に通うために宮城珠算学校を訪れたことから始まりました。体操教室に申し込む時にそろばん教室にジュニアクラスがあることを知り、なんとなくそろばん教室にも入ることになったと記憶しています。

 私がそろばんを頑張るきっかけになったのは、入塾してしばらくして開催された「ちびっこ大会」でした。これは県内の幼稚園生以下の大会で、参加者全員がメダルやお菓子を貰えるのですが、そのときもらったメダルが子供心にとても大きくキラキラ輝いていて、もっと色々なメダルがほしくなり、そこからそろばんへの意気込みが変わりました。
 家でも数時間練習するようになり、洗濯をしている母の横でかけ算九九を唱えたりしていました。練習すればする程どんどんのめり込み、取り憑かれたように毎日毎日そろばんをしていました。今思い返すと、生まれて初めて頭の中で何かが動いている感覚が新鮮で、もっともっと動かしたい、という衝動に駆られていたのだと思います。

 宮城清次郎先生、宮城忍人先生はじめ、多くのスタッフの方々のご厚意でジュニアクラス以外の教室にも参加させてもらい、私は順調に級を卒業し、段を取得することができました。選手団にも入れてもらうことになりました。当時は私より年上が大多数で、最初は追うものとして練習に励んでいました。私は当時、とても負けん気が強く、練習で点数が負けるととても悔しくて、トイレを我慢して練習する程でした。周りに年上が多かったことで、あんな風に速く計算したい、上の人に追いつきたいという気持ちが掻き立てられましたし、明確な目標が目の前にあり、恵まれた環境だったと思います。大会前には宮城清次郎先生の家で10数人での合宿があり、朝から夜までそろばんをして、みんなでご飯を食べ、就寝前にはトランプをしたりと、とても濃厚で楽しいそろばん生活を送っていました。幼少期に夢中になれるものに出会えたことはとても幸せだったと感じています。
 数多くの大会に出場させてもらいましたが、印象深いのは全日本通信珠算競技大会の4年生以下の部で3年間1位を獲れたことです。練習したのに本番で手が動かなかった大会、大事なところでミスしてしまった大会など上手くいかなかったことは多々ありましたが、3年間この大会での1位を守れたことは、今でも誇りに思っています。特に最後の年は満点で1位をとり、感無量でした。
 練習した分、緊張し、手も震えましたが、その緊張に勝って最高の結果を出せた経験は私の現在の精神力の根幹になっています。

 私は中学生で卒業しましたが、5歳からのそろばん生活で得たものは多くあります。まず、宮城清次郎先生が私に教えてくれた「継続は力なり」という言葉です。本当にそのとおりだと思います。毎日練習し、何故今日はうまくいかなかったのか、次はああしてみようと日々考えていけば、どんな困難なことも大抵どうにかなると私は考えられるようになりました。
 また、一度本気でそろばんを突き詰めた経験があるからこそ、勉学やその他の場面でも、今現在私の努力はまだ足りない、もっと行けるはずだと踏ん張りが利くようになっています。ただ正直なところ、もっとそろばんを続けていれば「継続は力なり」の別の意味だったり、違う世界が見えていたのだろうかと後悔することもあります。当時一緒に練習していた仲間が現在も大会に出場し輝いている姿をみると、10年以上続けるには並大抵の努力では無理でしょうし、今どのような世界を見ているのだろうと羨ましくなることもあります。   
 もしこの文章を読んでいる学習者の方がいれば、もうそろばんはいいかなと思ったときに、もう1回だけ一生懸命そろばんを続けてみてから進路を決めてほしいと勝手ながら思っています。

 そして最後に、高校生、大学生初期の頃は、そろばんを頑張っていたことからのメリットは集中力がついたこと以外は、正直あまり感じていませんでした。しかし、大学5年生から病院実習が始まり多くの先生と会うようになり、尊敬できる先生やバイタリティ溢れる先生は、今まで何かしら頂点を極めたり成し遂げた経験を持ち、自分の中に確固たる自信と精神力を持っている先生が多いことに気づきました。これ以上できないくらい努力し、道を極めた人はかっこいいです。これは病院だけではなく、社会でも同じだろうと思います。「何か本気で頑張ったことある?」と聞かれた時に私は自信を持って「そろばんで1位をとったことがあります」と答えることができ、一目おいてもらえることもあります。今になって、そろばんをやっていて良かったと心底思います。
 やる気が出ないとき、疲れて頑張れなくなったときには、沖縄からここ仙台に持ってきたそろばんケースをひらいて当時を思いだし、自分を鼓舞させています。

 ある先生が言っていました。「自分は頑張っているという人は多いけれど、本当に何かでトップを目指した人にしか一流になるための本当の努力量はわからない。だから、ただの頑張っているという言葉には重みがない」。
 その言葉を聞いてから、私はそろばんへの感謝の思いが一層強くなりました。トップを目指すという経験ができたのは自信となり、大きな糧となっています。そろばんを卒業した今でも心に誇れるものを私に与えてくれたそろばん、そして先生方には本当に感謝しています。
 そしてそう思うようになった今、この応援メッセージを書く機会を頂きとても光栄でした。

 そろばんを学習しているみなさん、ぜひ上を目指して頑張ってください。